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大阪地方裁判所 昭和41年(タ)90号 判決 1969年8月29日

原告(反訴被告) 大木一郎

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 石川荘四郎

被告(反訴原告) 大田花子

右訴訟代理人弁護士 光延豊

主文

原告(反訴被告)両名と被告(反訴原告)との間に親子関係の存在しないことを確認する。

原告(反訴被告)両名は各自被告(反訴原告)に対し金五〇万円及びこれに対する昭和四一年六月一一日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

被告(反訴原告)のその余の反訴請求を棄却する。

訴訟費用は本訴反訴を通じてこれを三分し、その一を原告(反訴被告)両名の、爾余を被告(反訴原告)の各負担とする。

本判決は第二項に限り仮に執行することができる。

事実

≪省略≫

理由

≪証拠省略≫を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  原告一郎と同加代とは昭和一〇年六月頃事実上の婚姻をし、同一五年六月一三日婚姻届をした夫婦であるが、同年四月一五日原告一郎は呉海兵団に召集され、支那方面で軍務に従事することとなったため、同二一年一月の復員まで原告加代がその留存を守っていた。原告一郎の召集当時原告両名間には子がなかったのであるが、原告加代は、姉の美代から、万一原告一郎が亡くなった時のことを考えれば、子供があった方がよいとすすめられ、自分のあとつぎを望む気持もあって、子を貰う決心をし、その頃もう一人の姉信子の内縁の夫にあたる大田郡一の養子である大田忠郎の妻さとこが妊娠していたので、女児が生まれたら貰い受けたいと申し入れた。果して昭和一五年一一月二八日、被告が忠郎夫婦の三女として出生したため、同人らは数日後被告を京子と命名し、郡一に出生届を依頼した上、原告加代に対し原告両名の養子とすることに同意した。然るに、同年一二月頃原告一郎が休暇で帰宅した際、原告加代は同一郎から被告を貰い子することにつき承諾を得たものの、名前は京子より花子の方がよいと言われたので、名を変えることにつき忠郎夫婦の了解を得る一方、美代から、同人の養女が学校で貰い子だといわれると言っていたから、どうせ知れるけれども、養女より実子として入籍したらいい、と言われたので、原告両名の実子として出生届をした方がよいと自らも判断し、その旨原告一郎の諒承を得た上、同月二八日、被告が原告両名の長女花子として同月二〇日に出生した旨の虚偽の出生届をしたのである。

(二)  しかし、原告加代と忠郎夫婦との話合いで、被告は当初から忠郎夫婦の膝下で養育されることとなった。理由は、原告加代に母乳がなく、大田さとこに出る乳をとめる辛さがあったからである。かくして、原告一郎が復員するまで被告は忠郎方で生活し、隣村の原告加代方へは時たま行くことがあった程度であった。またその間原告両名が忠郎夫婦に被告の扶養料等の金員を仕送りしたこともなかった。原告一郎は昭和二一年一月復員して、原告加代と共に住むようになったので、被告を引き取って育てようと忠郎方から連れてきたことがあったが、被告が原告一郎をきらって馴染まず、さとこを慕って大田の方へ帰りたいと泣くので、五日位して忠郎夫婦の許へ連れ戻した。そして被告の小学校入学を機に、原告両名と忠郎夫婦は協議の上、被告の戸籍を忠郎夫婦のそれに戻すことにしたが、被告を原告の実子として出生届をした関係上、被告と忠郎夫婦とが養子縁組をすることとし、昭和二二年四月一〇日その旨の届出をした。その後同年一一月四日原告両名間に長男俊一が出生したが、右養子縁組の届出当時、原告両名は原告加代が懐妊したことを知覚し得なかったのである。

(三)  被告は、右の如く実父母忠郎夫婦の許へ連れ戻されて以後は、ずっと同人らの許で養育され、原告両名とは道で会ったり、原告加代が行商の途中忠郎方へ立ち寄った際に会ったりする程度で、原告両名のことを「おじさん」、「おばさん」と呼びならわし、親子という気持も次第に稀薄になり、忠郎夫婦の方をずっと身近な父母と意識しながら成長していった。しかし昭和四〇年九月、本訴提起前の岡山家庭裁判所津山支部における調停のときまで、原告両名も忠郎夫婦も、被告に対して忠郎とさとこが真実の父母であることを明らかにしたことはなく、被告もまたその時点に至るまで、漠然とした不審の念はともかく、忠郎夫婦のもとには貰われてきたものと思い、心中あくまで原告両名こそ実の父母であると信じ続けてきたのであって、幼い頃実の兄弟から「真木に帰れ」といじめられたり、貧乏でも辛抱しようと思ったりした記憶を、原告加代と一緒に暮した幼い日の写真と共に、いだき続けてきたのである。それだけに右調停において、原告両名が突然あからさまに親子ではない、実の親は忠郎夫婦だと申し立てたことに、被告は今更むごいとの精神的衝撃を受けたのであった。

(四)  原告両名は、被告が昭和三七年三月その従兄にあたり、妻子もある大田順吉とねんごろになり、やがて同棲したり、自殺をはかったりといった生活を送るようになったのでそのような者との縁を切ることを切実に願い、とりわけ原告一郎が現に質商を営み、宅地建物山林等かなりの資産を有するところから、将来遺産の相続をめぐって問題が起こるのを最もおそれ、被告との戸籍上の実親子関係を真実に合致するように訂正すべく、昭和四〇年八月二〇日頃忠郎夫婦に被告の戸籍訂正を申し入れたが、話合いができず、同年九月岡山家庭裁判所津山支部に調停の申立をしたけれども、結局不成立に終り、本訴に及んだのであった。

以上の事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

二、以上に認定した事実から明らかなように、被告は昭和一五年一一月二〇日大田忠郎、同さとこの三女として出生したものであり、原告両名の子ではないから、原告両名と被告との間には親子関係が存在しない(なお養親子関係の存否については、被告は当初その存在を主張したが、後にこれを撤回し、その意思のないことを明らかにしたことが本件の訴訟上の経過であるところ、その主張の有無はともかく、本件における養親子関係の存否は、反訴に対する判断の中で触れる。結論はその存在を認め得ない)。故にこれが確認を求める原告の本訴請求は理由がある。

三、次に被告の原告両名に対する反訴請求について判断する。原告両名が、真実は親子関係がないのにもかかわらず、虚偽の出生届によって、被告を原告両名の嫡出子として公示し、二〇数年間にわたって被告をして実親と思わせておきながら、主としては自らの没後の全相続財産を実子俊一に保全するため、被告を相続人から排斥する意図で、被告の同意なくして本訴を提起し(調停前置主義の関係上、正確には前記調停を申し立てて)、実親でないことをあらわにする行為に出たこと、そのことによって、被告が多かれ少なかれ精神的な衝撃を受けたことは、叙上認定によって知られるとおりである。このことが、被告に対する不法行為として損害賠償責任を原告に問い得るか、以下これを検討する。

(一) 近時、養親子関係の成立にあたって、要式行為としての正規の縁組届が存在しないにもかかわらず、養親子関係の成立ないし存在を擬制しようとする志向が、学説はもとより、判例の上でも無視し得ない力を持つようになってきたことは、疑い得ないところである。本件は、そのような志向の延長線上においていわゆる典型的な「事実上の養親子関係」とは丁度裏腹の、いわば典型な「観念上の養親子関係」がある場合として位置づけられるであろう。蓋し、原告両名と被告との間には、叙上認定の事実からして親子らしい生活事実の裏づけが全くないといってよい反面、原告両名から被告の嫡出子出生届(以下単に出生届という)がなされており(そこに「一応の」人為的な親子関係即ち養親子関係設定意思の存在をみてとることができる)、且つ実親からの縁組代諾意思が明瞭に存在したとみられる関係上、少なくとも当事者間には、観念上養親子関係の成立をみたと言い得るからである。

しかし、それにもかかわらず、更にすすんで「真正な養親子関係」の成立をまで認めるには、出生届を縁組届に転換するに不可欠な、原告両名の生活に裏づけられた縁組意思が欠けているといわなければならないと考える。即ち、原則として、出生届に具体化された意思は、事実自己の子を自己の嫡出子とすることであるのに対し、縁組届のそれは、事実は他人の子を自己の嫡出子とすることであって、さればこそ縁組はその子との契約とされ、一五歳未満の場合は法定代理人の代諾を要するとされているのである。それ故、両者の本質を、嫡出親子関係を設定する意思という標識のみで、同一視することは十分ではない。出生届を認知届に転換し、また代諾権のない者の代諾による縁組の追認が認められても、出生届を縁組届に転換することをたやすく認め得ない所以の本質的な契機の一つは、まさに右の点にあるといえよう。ところで、本件の如く、縁組届が可能なのに、敢て出生届を選ぶ「親」の心理のうちに、ふつうの養親子関係以上に濃い親子関係を設定して「子」の将来における幸福を願う、という「親」の心情ないし意図のみをみるのは、主観的一面的なみかたであるとのそしりを免れず、そこに同時に、そういう偽りの形式をかりさせる「親」の、養親子関係設定意思における不安定さ、換言すれば養親子であることがあらわになったときの親子関係維持に対する不安からできるだけ養親子であることを陰蔽しようとする配慮をもみてとるのが経験に則した客観的なみかたというべきである。本件原告両名もまさにその例外でないことは、前記認定事実に徴して明らかである。従って、虚偽の出生届に養親子関係設定意思を認め得るとしても、それは、縁組という観点からみれば、却って本来の縁組意思程には、強固なものではなく、やはり「一応の」という設定を附せざるを得ない。とすれば、「観念上の養親子関係」成立の時点で、様式においても全く異る出生届を敢て縁組届に転換してまで、これを「真正な養親子関係」とみなすのはやはり早計であって、後に「事実上の養親子関係」即ち親子らしい生活事実の補強をまって始めて、右の一応の縁組意思を事後的に本来の縁組意思と確認し、ここに右の転換を認めて出生届の時点における「真正な養親子関係」の成立を擬制すべきである。そうして、右の意味での本来の縁組意思が確認されるまでは、当事者間に「縁組の予約」があると構成することもできようが、むしろ、「観念上の養親子関係」が存続するとみて、「親」がこれを一方的に破棄した場合、換言すれば、「子」の同意その他然るべき理由なしに、親子関係不存在確認の訴(もしくはその前置としての調停申立。本件においては昭和四〇年九月の岡山家庭裁判所津山支部への調停申立)または戸籍訂正の申立によって、出生届が虚偽であり、親子関係は元来存在しなかったとし、右にみたような一応の縁組意思を確定的に撤回する行為に及んだ場合は、「縁組の予約」をこえて、「事実上の養親子関係」の不当破棄に準じて、その法的保護をはかるべきである。蓋し、現代における戸籍の公証機能の大きさから考えると、前者が内包する戸籍の記載に裏づけられた親子関係の存在への信頼に対する毀損と、後者が内包する生活事実に裏づけられたそれに対する毀損との間に、質的な差等を設ける合理的根拠に乏しく、いずれも同じく実質的には人間としての至深の精神構造即ち人格に対する侵害にかかわるものとして、不法行為を構成するといわなければならないからである。

(二) 本件の場合、原告両名に右にいう本来の縁組意思を認め得ないこと、従って被告との間に、「真正な養親子関係」の成立を認め得ないことは前叙のとおりであるが、被告は、「観念上の養親子関係」の破棄の責任を共同不法行為として原告両名に問い得る(表現は異っても、被告の求めるところもここにあることは明らかである)こと、叙上の説示及び認定した事実に徴して疑いなく、よって誤った精神的損害を慰藉料として請求し得べき筋合である。原告両名は、時効によるこれが請求権の消滅を主張するが、本件における右不法行為の時点は、昭和四〇年九月における前記破棄の時点にはほかならないから、消滅時効の完成していないことは理の当然であり、右抗弁は所詮排斥を免れない。そこですすんでその慰藉料額であるが、原告両名と被告との「観念上の養親子関係」の継続期間、原告両名の該関係破棄の意図及び資産、被告の精神的打撃の度合等本件にあらわれた一切の事情を斟酌して、金五〇万円を以て相当とする。

四、以上の次第であるから、原告両名の本訴請求はこれを認容し、また被告の反訴請求は、原告両名に金五〇万円及びこれに対する反訴状送達の日の翌日であること記録上明らかな昭和四一年六月一一日以降完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の連帯の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用の上、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高野耕一 裁判官 石田真 松本克己)

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